はるかのひまわり
『贈られし
ひまはりの種は
生え揃ひ
葉を広げゆく
初夏の光に 』
平成最後の歌会始で天皇陛下が詠まれたはるかのひまわり。
1995年夏、神戸市東灘区の空き地にヒマワリが咲きました。
そこには、阪神淡路大震災で天国に旅立った小学校6年生の「はるか」ちゃんが住んでいた家がありました。
隣の家で飼っていたオウムのエサのヒマワリが、芽を出して花を咲かせたのです。
ご近所の人たちが、そのヒマワリを「はるかちゃんのひまわり」とはるかちゃんの供養と震災の生き証人としてのヒマワリを育て語り継ぐことにしました。
その思いを私たちHANDSが受け継ぎ広めていくことになりました。 今では、日本各地、そして世界にこの思いを発信し続けています。
1995年1月17日、午前5時46分に阪神淡路大震災が私の街、神戸を襲いました。それから8年・・・・。
震災で大切な人を失った人達にとっては、長いような短いような月日・・・
震災当時、我が家は4人家族。私は15歳で、中学3年生。妹は11歳で小学6年生。両親と暮らしていました。
あの朝、私は2階で、妹は1階で寝ていました。妹だけが家具の下敷きになり亡くなりました。震災での妹の「死」により、私達家族の暮らしは大きく変わってしまいました。
母は、亡くなった妹を思い、毎日の様に泣き暮らし、父は対照的に、ただ無言で仕事に逃げているように見えました。
私は「自分がしっかりして、両親を守らなければ」と変な責任感に駆られて、両親の前では泣くこともできず、感情を押し殺していました。
しかし、時間の経過とともに、いつまでも泣いて私の方を全然見てくれない母親に対して「もっと生きている私の方を見て欲しい」という気持ちを持つようになりました。
先に死んでしまった妹に嫉妬さえ覚えました。
そんな気持ちになっていた私に少しづつ変化が出てきたのは、亡くなった妹「はるか」を通して出会った人達がいたからです。きっかけは、一輪の「ひまわり」でした。
震災の年の夏、妹が亡くなった場所に一輪の大きな「ひまわり」が咲きました。それは、生前に妹が可愛がっていた隣の家のオウムの餌だった「ひまわり」の種から咲いた花でした。その後、、その場所にたくさんの「ひまわり」が咲きました。地域の人達は、その花の種を集め、それを「はるかのひまわり」と名付けて毎年、絶えることなく植え続けてくれています。
「はるかのひまわり」は、私にたくさんの出会いを作ってくれました。
同じ震災を経験した人達の中で、私は自然と肩の力が抜け、当たり前に泣くことができるようになりました。みんな、抱えきれないくらいの悲しみを抱えながら、少しでも明るく生きようとしている。自分ひとりだけが悲しくてつらいんじゃない。そう思えるようになりました。そう思えるようにありました。
今私は「1.17希望の灯り」というボランティアグループで、震災を通じて命の大切さを伝えていく活動をしています。
私は語り部として「目に見える神戸の街は元気を取り戻したように見えるけど『まだまだ心に悲しみを抱えている人達がいる』ということを忘れないで」と伝えています。
震災を語ることは私にとって、妹の死をしっかり受け止めて、私自身が前を向いて生きて行くために大切な事なのです。
失った人は戻ってこないけど
「ちゃんと一生懸命生きたよ」
そう伝える事ができるのは残された私たちしかできないのだから・・・