思い、刻んで  (『思い刻んで -震災10年のモニュメント-』(どりむ社出版)より 転載)
毎日新聞社 山崎一夫

 阪神・淡路大震災から10年の節目の年を控えた2004年の夏から秋にかけ、吉村昭さんの『関東大震災』(文春文庫)と宮本輝さんの『森の中の海』(光文社文庫)を読んだ。
 両親が関東大震災に遭い、幼い時から体験談になじんだ吉村さんがこの本を書いたのは1973年。寄しくも私が新聞記者生活を始めた年だった。この年の菊池寛賞に輝いたの本とはいえ、阪神大震災に遭っていなければ私が手にとることはなかっただろう。その阪神大震災で、被災していなければ、宮本さんは「現代人の再生と希望」というテーマでこの小説を書くことはなかっただろう。
 30年近い歳月を隔てて生まれた2冊の本は、さまざまなことを教えてくれる。

地震に伴う火災を中心とする20万人の死者が出た関東大震災は、大津波と富士山爆発、それに「朝鮮人襲来」という流言が人心を錯乱させた。浅草・新吉原の遊郭で廊外に出ることを許されなかった娼婦たちが吉原公園の弁天池に殺到し、490人もが寝間着のまま折り重なって死んでいた描写にはぼうぜんとさせられる。池の跡には追悼記念碑と観音像の二つのモニュメントが残っている。折からの社会主義勃興を警戒した軍部によって、海外からのボランティア船、ソ連の汽船「レーニン号」が横浜港を目前に退去させられた事実には笑わせられる。72年後の阪神淡路大震災の死者6000余人は、関東大震災の約5%にあたる。流言は極めて少なかった。ボランティアの高まりは、予想以上だった。
 しかし、変わらないものも多かった。何よりも「日本ってこんな非常時になんにもできない国だったのね」と『森の中の海』の主人公、希美子の妹、知沙に嘆かせ、「総理大臣なんて対応のあまりのまずさを指摘されて『なにぶん初めてのことなので』と言ったのよ」と母、郁江に語らせたそのことだ。当時村山富市内閣の自治大臣(兼国家公案委員長)だった野中広務さんは引退後の回想で、すでに火災に包まれた被災地で死者が相次いだ当日朝の閣議で「100人のけが人が出ている」という報告しか受けなかったことを痛切に悔やんでいた。まさに国のトップの心構えの問題だ。
 この本に出てくる震災モニュメントは、しかし、そのことを批判しているわけではない。嘆いているわけでもない。ただそこに建てられた意味を静かに告げているだけだ。
 吉村さん『関東大震災』は震災50年後に出された。いずれ阪神・淡路大震災も後世、その「すべて」が語られる時がくるだろう。その時まで、震災モニュメントが語りかけるものが何か、私たちは克明に追っていくつもりだ。