・NPO法人プラスアーツ代表 永田 宏和さん(2009年12月)
阪神淡路大震災から今年で15年目を迎えます。震災当時大阪に住んでいて震度5強の揺れを体験し、その直後から、神戸のど真ん中にいた姉の安否確認と物資輸送で頻繁に神戸の地を訪れ、被災した町の悲惨な状況を目の当たりにしました。
その後もふるさと西宮の旧家の全壊による建て替えにも関わるなど、平穏な日常生活が一変するような自分なりの震災体験は存在していますが、私と震災との関係を語るうえで自分の人生にも大きな影響を与えたのは、震災から10年を経た後に関わることになった「震災10年神戸からの発信事業」において開発した、子どもたちとそのファミリーが楽しみながら防災を学ぶ新しい形の防災訓練「イザ!カエルキャラバン!」だと言えます。
アーティスト藤浩志とともに開発したこのプログラムは、震災後10年経た神戸で風化しつつあった防災の教訓や知恵、技を次世代を担う子どもたちに伝えていくために作られたプログラムで、藤浩志が開発したいらなくなったおもちゃを使ったお店屋さんごっこイベント「かえっこバザール」と防災訓練を組み合わせることによって生み出されました。
このプログラムは2005年に神戸市内7か所を回り、延べ7000人余りのファミリーを集め、大きな反響を生みました。そして、その活動はその後全国に広がり、新潟、埼玉、東京、茨城、神奈川、静岡、愛知、奈良、大阪、和歌山、香川、宮崎、と兵庫以外の12県で開催されるまでに至り、2007年にはインドネシアにその開催の輪が広がり、2009年には中米コスタリカで紹介されるなどその活動はワールドワイドに広がりつつあります。
このように日本全国で、そして海外で子どもたちの防災教育に携わりながらいつもその原点は神戸にあることを強く意識しています。なぜなら防災の教訓や知恵、技を教えてくれたのは神戸の被災者にほかならず、私たちはそれを様々な地域の様々な人たちに伝えるために「コミュニケーションデザイン」をしているに過ぎないからです。
全国の他の地域や海外に赴くと、常に神戸では当時どうだったのかと聞かれ、神戸に学べて勉強になったと感謝されます。防災という分野において神戸は常にリスペクトされています。これは非常に誇りを持つべきことであると同時に、今後も防災の取り組みの火を消してはならない大きな責任を背負っていると強く感じています。
震災後15年がたち、神戸においても震災の記憶、教訓はどんどん風化しているとよく耳にします。そしてそのことに対する危機感も多くの方々の口から叫ばれ続けています。私は、学術的な立場で防災のことを語り、発表し、社会にアピールすることはできませんが、「イザ!カエルキャラバン!」の活動を広めていくことを活動の中心に据えながら、多くのアーティスト、デザイナーの方々との協働によってこれからも15年前の「阪神淡路大震災」の教訓や知恵、技を多くの子どもたち、多くのファミリーに強く、しっかりと伝えるべく真摯な態度で取り組んでいきたいと思っています。
2009年12月
NPO法人プラス・アーツ(http://www.plus-arts.net/)
・アカペラグループ SugarStyleSpiritリーダー HEROさん(2009年12月)
『今を生き抜くと言うこと』
15年前、あの惨事を間違いなく体験した。
決して忘れる事はないだろう。
幸い自分や知り合いに不幸はなかった。
初めは、ただただ、無事でよかったと思った。
しかししばらくして、震災の全貌が明らかになるにつれ、自分が被災にあっても無事で、「被災者」ではない事に後ろめたさを感じるようになった。
それから何ヶ月かの間、自分はいつの間にか震災から目を背けていた。
変な話
ゴタイマンゾクな私に「震災経験者」などと公言してもイイのか…と真剣に悩んだ。
でもいつ頃からだろうか、心境の変化も定かではないけど、もう一度自身に問い掛けるべく、震災と向き合いたくなった。
何かから逃げてるような自分にケリをつけたかったと思う。
私は、歌ウタイだ。
ステージから人に「ココロ」を届けるお仕事だ。
キモチの上で一から踏み出すには何ができるか…
「俺には歌しかない」
…それから
毎年、1月には震災記念ライブを行うことにした。
一年、また一年と回を重ねて意味を求めた。
意味は持てたが意義はまだ見つからなかった。
そんな中、震災10年を控えたある日、導かれるように訪れた「人と防災未来センター」で一冊の本に出会った。
「ゆうへ」(たかいちづさん著)だ。
涙がとまらなかった。
悲しいとか、侘しいとかの感情では片付かない涙だった。
今まで見えなかった震災を真正面から見た気がした。
それは自分の命と向き合うこと、この生かされた命をいかにまっとうしなきゃならないかということ。
ブレてたキモチがなくなった、生きる意義の涙だったのかもしれない。
そして「LOVE&PEACE」という詞を書いた。
自身、パニック障害にも悩まされた時期もあり、自分自身の命は、生かされた尊いモノで、しかも独りで生き抜くなんて出来ない事も、学んだ。
人は人と出会って強くなる。
生かされた命を生き抜く力を人から与えられる。
そして生かされてる以上、幸せになる義務があるんだ。
命を奪われた人たちのためにも……果ては自分のために。
2010年1.17
震災から今年で15年を迎える。
薄れ行く記憶を哀れみではなく、今の時代に、今の生かされた「人」に遺していかなければならない。
天災、人災、すべて引っくるめて命の尊さと向き合うきっかけ、生き抜く元気を少しでも届けたい。
未熟な歌ウタイは、今もそう思う…
2009年 12月
※HEROさんのアカペラグループ
Sugar Style Spirit オフィシャルサイトhttp://nest-acappella.com/SSS/index.html
・ 「震災の記憶」 西宮市 みんなげんきジム 米田和正さん(2011年2月28日)
Tさんから原稿を依頼されて、阪神大震災のことを書こうと17年前を思い出していた時『NZクライストチャーチで地震』の速報が飛び込んできました。
一瞬にして崩れて瓦礫となってしまったビルの映像が流れると1995年1月17日朝のことが鮮明に蘇って来ました。
小生と家族は、阪神大震災当時、仕事場である、"みんなげんきジム"に隣接する賃貸マンション5階に住んでいました。未明5時46分突き上げるような揺れで目が覚め、ジェットコースターのような揺れがおさまるまでの時間がとても長く感じられ、崩れてきた本の中から這い出ると隣室の子ども部屋に飛び込む、スティールの本箱が倒れている、もう30センチで長男の頭にあたっていたかもしれない!幸い家内も長男も次男も無事だったが、リビング隅にあったTVが2メーターもふっ飛び、食器棚が倒れコップや皿の破片で足の踏み場もない。家族の無事を確認して外に飛び出す、火災報知機のベルが鳴っているが、幸い火災は発生していないようだ!
6時過ぎに気象情報の会社のウェザーニュースに電話を入れて確認するが千葉幕張の当直の担当者は地震のことを全く知らない。日本中がグチャグチャになったと思っていたが東京はどうもないらしい。"みんなげんきジム"のアナログ電話は不思議なことに震災直後もずーっと通話ができて、松が丘の母の安否確認もアメリカ在住の妹からも電話が入ってきた。
"みんなげんきジム"の3階にスタッフとしてNZのジェフさんとロジャーさんが住んでいたので二人の屈強な若者と近隣の様子を見に行く。倒壊家屋の中から「助けてください!」の声が聴こえる、真っ暗の中、救出活動を始める。
近所の娘さんが「母が家から出られません!!助けてください!!」と手を掴んで離さない、倒壊した家に駆け付けると、見なれた木造2階建てが平屋になっている・・・夜が明け明るくなってくると周辺の木造家屋のほとんどが壊れているのが見えてくる・・・余震も続いているのだが勇敢にもNZの二人は瓦礫の中から女性を抱えて飛び出した・・・。
「"みんなげんきジム"の1階を避難所にします」と大声を出して町内を走ると、怪我をされた方や御家族など30名の人が避難してこられた。
隣接する宮西町からも瓦礫の中から助けられた高齢の方が二人運ばれてくる・・・息がない・・家内が蘇生を試みる、町内のS小児科の先生に来てもらうが、診療所もグチャグチャで包帯も薬も取り出せない・・どこの病院が昨日しているのか??すぐにS病院に走る、息をのむ、駐車場にはご遺体が並べられている、病院の中は足の踏み場もない修羅場と化している・・・県立病院に走る、病院の外まで頭から血を流した人や泥まみれの人の列が並んでいる、看護婦さんに頼んで包帯と消毒液を段ボールに詰めてもらって再びジムに戻る。浜にある西宮回生病院に走る、戦火にも残った立派な石造りの玄関は崩れていたが、院長や事務長も駆け付けており、新館は自家発電装置で明るく空調も動いていた。ジムに戻る途中
夙川公園で作家の小田実さん家族が手をつないでおられた、ジムに戻ると「回生病院は診療しています、回生病院に行ってください」と皆に伝える。
震災後、桜が咲く4月頃だったでしょうか?被災地も少しずつ落ち着いた頃、西宮回生病院の菊池院長に話を聞くと「一週間は仮眠だけでずーっと病院で治療したけど・・地震の朝・・・亡くなった人をあんなぎょうさん診たんは初めてやった、ご遺体安置所はいっぱいになったからリハビリ室に安置したけど入りきらへんかった・・・足の傷を縫うてたら・・・先生!!こっちの人が先です・・・看護婦も必死やったな、薬もなくなって、麻酔なしで傷と縫うてたなぁ・・・それにしても誰も文句言わへんかった??俺は学校で何を勉強したんかなぁ??あれで良かったんかなぁ??」「もしかしたら俺も死んでたかもしれへんし・・・生きてたから病院に駆けつけられたんやなぁ・・この地球に生かされたことに感謝やなぁ・・・」
最後にポツリと一言「けど・・地震はもうええわ・・・」
阪神大震災で救命救急にあたられ、トリアージ(治療の優先順位を決めること)の必要性を提唱された菊池和正院長も3年前に鬼籍に入られました・・・。
阪神大震災の時に町内の救命活動をしたジェフ・リンスコットさんのお兄さんは、ニュージーランドの救急救命医で現在もクライストチャーチ地震で負傷した人たちの治療に当たられています。
NZ地震から1週間経った今日、救助の皆様、そして御家族のみなさまの心労も極限に達していると思います・・・・。
お亡くなりになられた皆様の御冥福をお祈り申し上げます。
2011.2.28