当時子供たった人たちの想い



神戸芸術工科大学 Wさん

「ルミナリエと、震災と、デザインと。』   
 思い返せば震災当時、私はまだ小学校にも上がっていない歳でした。住まいも加古川市にあり、県内にいた親戚も、御影にひとりで住んでいた祖父にさえ奇跡的に被害はほとんど出ず、数日後にはいつもと変わらない日常を取り戻していたように思います。神戸の街は地獄や戦場と見まがうほど、ズタズタになっていたというのに…。  5〜6歳の子供にとっては、理解しろということの方が難しかったかもしれません。ましてや被災してもいないのです。私の中で震災は時間が経つにつれ、自然と忘れ去られていきました。  さて、そんな私が何故こんなところで震災に関する手記などしたためることになったのか…そのきっかけは、「神戸ルミナリエ」でした。 
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 大学生になって一年ほど経った頃になります。きっかけは、一枚の張り紙。大学の社会連携事業として、神戸ルミナリエの公式ポスターやグッズのデザインを手がけていた先輩方からの、今年のプロジェクトへの参加者を募集している、というものでした。  曲がりなりにもデザイナー志望の学生としては、こういったプロジェクトに早くから参加し、経験を積んでおくべきだ。まして有名なイベントである神戸ルミナリエでデザインに関われる機会なんて他にあるだろうか。もしかしたら、これで世の中に自分の作品が出るかも知れない…。なんて、今思い出すと顔から火が出そうなくらいに恥ずかしいのですが、当時大学二年生(成人)の私は本気でそんな馬鹿なことを考えていたのです。  目先の欲に踊らされる人間の実力などたかが知れています。数点のポスターやグッズのアイデアを提出するも、結果は総ボツ。当然の結果でした。  自業自得ながら現実の厳しさに打ちひしがれている私に、先輩方は優しく接してくれました。先輩に付いてテレビ取材に同行したり、ラジオ番組のインタビューを受けるなど、デザインこそ採用されなかったものの、自分の言葉でルミナリエと震災について話し、考える機会を得ることができました。  言葉で語るうち、私の胸の内にも、いつしか先輩と同じ疑問が浮かびました。芸術的な光の廻廊、それ自体はとても美しく感動的なのに、何かが…絶対的な何かが足りない。着飾って笑いあうカップル、屋台から流れてくる いいにおい、必死な声で募金を募る会場スタッフ……そう、「震災メモリアル」としてのルミナリエはすでになく、そこはもうただのイルミネーション・イベントでしかなくなっていたのです。神戸市としては、貴重な観光財源であるルミナリエをなくすわけにはいかない、ということは十分わかります。でも、だからといってルミナリエの存在意義である震災を、ないがしろにしてもいいとは思えない。この何万という数の観客のうち何人が、ルミナリエの真の意味を理解しているんだろうと思うと、むしょうに、むなしくなりました。  このままではいけない。でも、なにをどうすればいいのかわからない。第一、私一人ががんばったところでどうにもならないじゃないか。神戸市民でも、被災者でも、遺族でもないくせに、震災の何が伝えられるっていうんだろう…。
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三年生に上がって間もなく、ゼミの教授から思いもよらない提案が飛び出しました。震災の被災者・遺族の方から直接、当時の話を伺えないか遺族会と検討しているというのです。教授はルミナリエのプロジェクト指揮を担当しており、真っ先にルミナリエの問題点を見抜き、提起してきた人物です。  震災を知らないのなら、これから知ればいい。いまからでも遅くなんかない。頭をコツリとやられたような気分でした。私達は手分けして、語り部候補の方々にお願いをしに行きました。  こうして、大学に被災者の方を招いてお話をして頂く「震災セミナー」が実施されました。当時のお話は私が想像していた以上に酷いもので、ただただ胸が苦しかったと記憶しています。  震災をもっと知っていくために、私達は教授と相談して、できそうなことを片っ端からやってみました。人と防災未来センターの見学や、震災を伝える活動をする、若い世代の先輩方との交流。また大学の中では「はるかのひまわり」を自分たちで育て、一人一人が震災と向き合おうとしました。私はそのことを文章にして自分の考えを整理していくため、そしてそれを一人でも多くの人に見てもらうために、自らゼミのブログを開設し、そこに育成日記をつけました。できた種は大学祭で配布し、人と言葉を交わすうち、もっと沢山の…それこそ、震災のことをなにも知らないでルミナリエに来るような人たちにこそ、震災から神戸が学んだことをちゃんと伝えなければならないのではないか、と思うようになりました。  ルミナリエをあるべき姿に戻すため、何をすればいいのか。メンバーが話し合い、導き出した結論は「ルミナリエを、震災を知り、伝えるための場所にする」というものでした。  震災を知ってもらうためのいくつかの企画が考え出されました。来場者と作る光のモニュメント、大学で育ったはるかのひまわりの種配布、心を安らかにさせる音楽会…。遺族会のみなさんは勿論、パフォーマンスに使う布や紙を用意してくれる業者のみなさん、音楽を演奏したり歌ったりしてくれる学生を募り、私達の想いを伝えました。いつしか学内外の、立場も境遇も違うあらゆる人々が一丸となって、震災とルミナリエに立ち向かっていました。
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平成二十二年十二月一日。この日、神戸ルミナリエは前夜祭ともいえる、「ハートフル・デー」を迎えました。十六回目を数えるルミナリエの、事実上の開幕です。  メイン会場から少し離れた噴水広場会場で、私達は慌ただしくパフォーマンスの準備をはじめました。これから十三日のあいだ、ルミナリエを原点に立ち返らせ、ルミナリエを通じて震災や、人の絆といのちの尊さについて気付いてもらうための挑戦が始まるのです。それらのパフォーマンスはまとめて、「ヒトキズナ+ぷろじぇくと」と名付けられました。  来場者とともに作る、LEDライトを用いた追悼モニュメントには、「自ら参加することで、まず震災に一歩歩み寄って欲しい」という願いが込められました。また会場内で「震災語り部」を実施してもらったのは、「震災セミナー」の時に感じた想いを、観客のみなさんにも体験していただくためでした。歪んだ状態のルミナリエに来て、さらに震災当時のことを語るというのは、あまりに酷なことを強いているのではないかという不安が大きかったのですが、「震災を伝えようと頑張っている学生たちの頼みなら」と、快く了承してくださった語り部の皆さんには、感謝してもしきれませんでした。  その尊い恩を返さなければと、私はマスコミ各局への取材対応を担当したいと、自ら教授に申し出ました。決して簡単な仕事ではないとわかっていましたが、ただモノを作って終わるのではなく、パフォーマンスに込めた意味や、この取り組みから学んだことを、キチンと言葉でも伝えておきたかったのです。そのためには、テレビや新聞など多くの人の目に触れるメディアによって、それも当事者たちの生の声が露出される必要がありました。  勿論、全国に放送されるようなテレビに出るとか、何人もの新聞記者からインタビューを受けるなんてはじめてのことです。できる限りの言葉を尽くして、私はメディアの向こう側にメッセージを伝え続けました。震災を経験していないからこそ、矢面に立って言葉を発することができたのだと思います。  日を追うごとに来場者は増えていき、新聞記事やテレビを見てかけつけてくださる方も一人や二人にとどまりませんでした。学生という身分の小さな力でも、一生懸命伝えればそれを受け止めてくれる人がいるという事は、とても心強く思えました。他の人に絆の尊さを教えようと思っていたのに、気がつけば自分の方が絆の力を教わったように思います。
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十三日間のプロジェクトは滞りなく終了したのですが、決して大成功とも言えませんでした。震災の犠牲者と同じ6,434の灯りが灯るはずだったモニュメントは、会期中に半分も点灯することができませんでした。初めての試みだった、ということを差し引いても、いまのルミナリエが抱える病はこれほどまでに根が深いのかと、正直がっかりしていました。  でも、これがルミナリエの現状なのです。  神戸を愛する人のなかには、ルミナリエをやめるべきだと言う人も少なくありません。でも私は、震災を未来に伝えていくにはルミナリエの力が必要だと思うのです。いままで神戸が分かち合ってきた震災の教訓を、今度は神戸から日本中へ、世界中へ発信していくべきなのではないでしょうか。それになにより、神戸の人に愛されないルミナリエなんて、見ていて悲しくてつらい。だから、ルミナリエで震災を伝える、ということを諦めたくないのです。  私はこれからも、震災を私の言葉で伝え続けていきたいと思います。  来年の光の廻廊は、今年よりもっと輝いていますように。 2010年12月



関西学院大学 Sさん

『震災の後に生まれた子どもたちへ』

2009年12月16日(水)、17日(木)
西宮市の小学校5年生の子どもたちと一緒に震災について考える授業を行いました。
震災のあとに生まれた子どもたちは
「阪神・淡路大震災」という言葉を聞いて
どんな反応をするんだろう?
どんなことを知っているんだろう?
どんなことを思うんだろう?

そして、みんなに聞いてほしいことがあります。
子どもたちの真剣な表情が印象的でした。
今年の秋、指導補助員として関わった小学校の5年生。先生方のご協力のおかげで、震災の授業をさせてもらえることになりました。
 「1995年1月17日」
みんなはこの日に何が起こったか知ってる?
―阪神・淡路大震災!
とすぐにこたえられる子どもたち
 じゃぁ、この震災のことで知ってること、何かある?
―冷蔵庫が歩いたってお母さんに聞いた
―高速道路が倒れた写真みたことあるよ
―ボランティアの人がたくさんきてくれたんだって
予想以上に、みんな「震災」のこと知っていました。
震災当時、私は6歳。
当時の記憶はあまりありません。
自分の体験と、両親から聞いた当時の様子
そして、震災から1年後に書いた私の作文をもとに子どもたちに当時の話をしました。
寒かったこと。怖かったこと。
不安だったこと。
そして一番心に残っている
「大人たちの姿」
壊れた家の下敷きになっている人たちを助けにいく大人
食料を集め、水をくみにいきごはんをつくってくれた大人
地域の人が、助け合い、協力し合っていた
その姿は、今も忘れることができません。
私がみんなに伝えたかったこと。
それは、「助け合うこと、協力すること」はもちろん
「人とのつながりを大事にしてほしい」ということです。
そう思うようになったのは、記憶に残る大人の姿からだけではありません。
地震後に両親から聞いた、ある出来事も大きく影響しています。
地震から2日後。
自衛隊の人たちが、全壊のアパートの屋根をはぐり作業をはじめました。
地震直後アパートの住民たちは、それぞれの安否を確認し、一人暮らしの男性の姿がないことに気付きましたが、みんなで何度も名前を呼んでも返事はありませんでした。留守がちの人だったので、その日は運よく帰っていなかったんだろうと安心していたといいます。
アパートの住民はみんな無事だったはずなのになぜ・・・?
何時間かして、アパートから毛布にくるまれた男性が運び出されました。
なぜ、その男性がアパートの下にいることがわかったのか。
それは、男性の友人が、ニュースを見て何度連絡しても
連絡がつかないと心配し、豊中から西宮まで歩いてきてくれたからでした。
もし、友人がきてくれていなかったらもっと長い間その男性は
家の下敷きになったままだったかもしれません。

私はこの話を母から聞き、亡くなった男性の無念さももちろん考えましたが、豊中から西宮まで歩いてきた友人の気持ちを思いました。
 どんな気持ちで歩いてきたんだろう
 友の死を目の当たりにした、その時の気持ちは・・・?

そして、もし私だったらそんなことができるだろうか?
ここまでしてくれる友人はいるんだろうか?

友達が困っている時、助けようと思える心や行動力のある人になろう。
そして、自分が困っている時も助けてくれる友達がいてくれるように、友達を大切にしよう。
友達だけじゃなく、家族も、地域の人も・・・

2つ目に伝えたかったこと。
それは、生きたくても、生きることができなかった人がいること。
普段、私たちは忘れがちになってしまうけれど
今「生きている」「命がある」ということは決して当たり前ではないということ。を忘れないでほしい。

これから、中学校、高校、大学にいったり働いたりしていく中できっと、辛いこと しんどいこと 悲しいこと 苦しいことがたくさんあるでしょう。
けれど、そんな時に「生きている」ということに感謝して
自分の命も、周りの人の命も、1日1日を大切にしてほしいと思います。私も、そうできる人でありたい。
と子どもたちに伝えました。

震災で息子を亡くされた、たかいちづさんが
悲しみつらさを乗り越え、「生きていく」姿を描いた絵本を読み授業を終えました。
震災当時の記憶は薄くても
当時の生々しい出来事をこどもたちに話すことができなくても
みんなより小さかった私が震災を経験して15年経ち、大人になったとき
「大事だ」と思ったものを伝えることができれば・・・
それがまた、子どもたちの心に残ってくれれば・・・
そんな想いで、授業をしました。

子どもたちは、どんなことを感じてくれただろう。
どんなことに気づいたんだろう。
「何か」伝わっていたらいいなぁ・・・
授業後に、書いてもらった感想文が、語ってくれています。

一緒に考えてくれたみんな。本当にありがとう。